東日本大震災時の多賀城

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東日本大震災時の多賀城の様子
東日本大震災時の多賀城市鶴ヶ谷地区

 

地震が来た時は自宅の仕事場にいました。マウスがうまく操作できず、なかなかPCを終了できないほどの凄まじい揺れでした。電気はすぐに止まったので、ラジオをつけ情報を得ました。水も止まる可能性があったので、まだ出ているうちに風呂いっぱいに溜めました。宮城県沖地震以来ずっと続けていますが、トイレを流すときなど、これがけっこう役に立ちました。

 

津波情報で混乱する中、自転車に乗り、息子を幼稚園へ迎えに行きました。通り道となる国道45号線は、市内を流れる砂押川方面が通行止になっていました。もしかすると津波がここまでさかのぼってきたのだろうか。これはただ事ではないなと思いました。

 

幼稚園では子供たちがテントに入り、家族の迎えを待っていました。送迎バスは、津波被害のあった道も走りますが、その日は出ていませんでした。幼稚園の的確な判断に感謝しか思いつきませんでした。帰り道、空いていたセブンイレブンを運良く見つけ、そこでカップラーメンなどの食料品を確保することができました。

夜は、ローソクに火を灯し、家族みんなで石油ストーブで暖をとりました。灯油は、大変な状況にもかかわらずカメイの灯油宅配が来てくれ、4つ分のポリタンクを満タンにしてくれました。ストーブはファンヒータではなく、古いタイプのものが役立ちました。乾電池で動く上、ストーブの上でお湯を沸かしたり、調理したりできるからです。冷蔵庫にあったもので、妻が鍋なども作ってくれました。

 

写真は、翌日撮影した多賀城市鶴ヶ谷地区の風景です。ガソリンの確保が心配だったので、自転車で回りました。広いグラウンドは、津波で決壊した砂押川から流れ込んだ水がそのまま残っていました。このときは知りませんでしたが、多賀城市の3分の1が津波で浸水したそうです。仙台港では石油コンビナートの火災が起き、数日間燃え続けました。復興は少しづつ進み、現在この地には多賀城市最大の復興住宅が建っています。

あの日以来、車のガソリンが減るとすぐに満タンにするよう心がけています。